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旭川市民性 その3

2013年7月13日 土曜日

伍四人

 旭川の歴史は明治政府が進めた屯田兵中心の開拓から始まり、そしてついには第二師団がおかれた軍都となったのである。

 軍中心に街が栄えた軍・城下町であり、商業も軍ご用達であったり、親方日の丸的なところがあり自分から起業したり、発信したりする必要がなかったのではなかろうか?このことが旭川の市民性を形成したのではないのだろうか?

 一方十勝・帯広の歴史は、最初の入植者は静岡県伊豆地方で形成された晩成社という民間組織であり、彼らは高い志を掲げて、アメリカ式の大規模農業で未開の十勝を開拓しようとした。水田の造成、牛肉の生産、バターやコンデンスミルクなどの酪農製品の製造など、当時と先進的な事業を展開するものの50年後に解散を余儀なくされるがこの精神文化は残った。十勝では今でも地域の結束が固く、自分たちでやるという独自性の気風があり、独特の風土と文化が受け継がれていて、十勝モンロー主義なる言葉も出ているほどである。

 こう考えると旭川市民には客体姓、帯広市民には主体性という言葉がマッチしてくる。だからいくら言っても無駄なんだと思う。

 神輿を作ろうという気概に欠け、実際に神輿を作るのが苦手で、そのくせ一端神輿が出来あがると、担いだり、ぶら下がるのは得意な市民なのだと思うことにしている。

 旭山動物園は当初、批判や、無関心層と戦った一人の不屈なリーダが部下を動かして作ったと聞いている。一端神輿(動物園)が出来上がると、一転して担ぎだすし、担いでくれる市民なのである。そこに山があるから登るという市民性なのである。

 土着している精神風土のDNAは変えられない。