旭川市 たられ場物語 その1
2013年10月21日
四四人
もし離宮ができてたら・・・
当時の北海道は蝦夷地とよばれていて、まだまだ開懇が必要であり、そして富国強兵の高揚の中心として皇室があったので、旭川近郊に明治天皇の離宮をつくる話があった。神楽とか嵐山とか御料地とかはその名残であり皇室崇拝者が早々と移り住んだという話もある。札幌の反対でこの案はなくなったと聞くが、もし実現してたら、東京が東の京都で東京、旭川は北の京都つまり北京(ペキンではなくほっきょうですよ))と名付けられたていたであろう。そして全国でも有名な都市になっていただろう。
このあたりの話をもっと知りたい人は 旭山動物園行きに加えて東旭川に在る兵村記念館にぜひ行くことも旅行日程に入れてみてくださいね。参考までに下記に18期苅田京子さんの記述したものの一部をあげさせて戴きましたので、読んでみてください。旭川神社も旭川小学校も東旭川に在ったんですよ。現旭川市街地は忠別と呼ばれていてなぜかすり替わってしまったのです。そのほかに、牛別川が流れを変えさせらりたり、旭橋が木製から鉄橋に替った時の話などをが解説されてます。
伍四人メンバー 18期 苅田京子
東旭川にある「旭川神社」の隣にある「兵村記念館」へ寄ってみました。
明治23年~24年に、永山と、旭川(現東旭川)、当麻に1200戸が入植しました。
現在の旭川市街地は、もっと後から発展され「忠別」と呼ばれていましたが、
明治30年、「忠別」が密かに北海道庁を動かし、「旭川」として独立しました。
突然のことに屯田兵たちは怒り、道庁に反対運動をおこし、
明治31年に北海道長官より、《旭川の上に「東」をのせ「東旭川」とすること。
歴史的事実を残すために、「旭川神社」「旭川小学校」の名前は
永久に東旭川に残すことを》、約束したそうです。
ちなみに、明治40年(現西高の前身)北海道庁立上川高等女学校として設立が認可されました。
ついでにもう一つ。
屯田兵募集の頃、明治天皇の離宮を旭川に造るという噂があり、
それに基づき、京都からも宮大工が入村したそうです。
神楽岡が、離宮予定地であり、
京都を模して、石狩川が鴨川。旭岳が比叡山。そして嵐山の名称がつけられました。
それで、碁盤の目の街つくりだったのでしょうか。
もしかしたら、「北京」「ほっきょう」となっていたかも。